今回は、「学校が子どもたちから奪い続けているもの」についてです。
結論は
・学校には「歪んだ平等」が蔓延っている
・学校の役割は、同質化した人材を大量生産すること
・学校は子どもたちから、「個性」や「自分らしさ」を奪い続けている
です。
「多様性」という言葉をよく耳にするようになりました。
多様性とは
・幅広く性質の異なる群が存在すること
・互いに非常に異なる多くの人や物の集まり
のことを言います。
ただし一般的には
・色々な人や生き方があって良い
・個性を大切にしよう
というようなニュアンスで使われることが多いですね。
非常にざっくり言ってしまえば
それぞれの「個性」や「自分らしさ」を尊重しよう
という流れが、社会的に進んでいるということです。
「多様性」という言葉を免罪符のように考え勘違いしている人も多いのが現状ですが、大枠の流れとしては良いことなのではないかと思われます。
しかし、多様性と真逆に進み続けているところがあります。
それが、学校教育です。
大人の社会では個性や多様性を大切にしようと言っているのに、その基盤となる子どもの教育では、その正反対のことが当たり前のように続けられているのです。
学校教育で行われていることは
誰もが同じようになる教育
です。
いわゆる「同質化」です。
大人になったら「自分らしく生きよう」などと言っているのに、子どもたちには周りと同じになることが正しいと刷り込んでいるわけです。
意味不明ですよね。
それでは、学校教育の問題点や弊害について説明していきます。
歪んだ平等

学校教育には、「歪んだ平等」が蔓延っています。
学校教育に限らず、社会全体でも同じことが言えるかもしれませんが、学校教育では特に顕著です。
平等とは
偏りや差別がなく、全てのものが一様で等しいこと
です。
しかし、そもそも人間は生まれながらに平等ではありません。
・性別
・体型
・容姿
・運動能力
・頭の良さ
・親の経済力
・親の頭の良さ
など、ありとあらゆることが生まれた時点で人それぞれです。
誰もが平等などではなく、差が存在します。
恵まれた環境や能力を持っている人もいれば、恵まれていない人だっているのが現実です。
能力などは、努力で自分の100%に近づけることはできますが、100%の大きさ自体が人によって大きく差があるのです。
みんなが一様に等しくなることなど、不可能なのは当たり前のことです。
これは単なる事実であり、現実です。
しかし学校教育では、誰もがが同じようになることを求めます。
そんなこと不可能なのは、明らかなのにも拘わらずです。
強制的に同じレールの上に乗せて、同質化することを刷り込んでいくのです。
上も下も、異物として認めません。
例えば、勉強が非常にできて学校の授業を受けても、何の意味もないレベルの生徒がいたとします。
その場合、その生徒は学校の授業を受けるよりも、他のことをしていた方が明らかにプラスです。
しかし、学校というところは、それを許しません。
もちろん、許さないことに正当性のある理由など存在しません。
また、勉強が全然できず、学校の授業についていけない生徒がいたとします。
その生徒は、「落ちこぼれ」として扱われ、成績を上げることを至上命題にされます。
しかし、その生徒は勉強以外に他の誰よりも秀でていることがあるかもしれません。
学校は、そのような可能性などに対しては、興味はありません。
このように
みんなと同じになること
という何一つ正当性も根拠もないものが目的化しているのが、学校教育なのです。
そもそも教師のほとんどは、教師以外の仕事をしたこともない人ばかりです。
社会のことを何も知らないと言っても、過言ではありません。
そんな教師が上から目線で進路相談などをするのは、もはや意味が分かりませんよね。
学校教育の目的

なぜ学校教育は歪んだ平等を振りかざし同質化させようとするのかと言えば、学校のそもそもの存在理由自体が
同質化した集団を大量生産すること
だからです。
もう少し正確に言えば
・産業化社会において、学校の目的は同質化した集団を大量生産することだった
・産業化社会が終わり、その目的は必要なくなった
・にも拘らず、未だに当時の目的に沿った教育が行われている
ということです。
18世紀末にイギリスで起こった産業革命により、世界は産業化社会になっていきました。
産業化社会では、大量生産・大量消費を原動力に経済成長が進み、物質的な豊かさを追い求めるようになってったのです。
そして大量生産をするためには、例えば工場などで同じことをできる労働力が大量に必要でした。
つまり
同じように会社や工場などで働ける人間が大量に必要な時代だった
ということです。
同質化した集団を社会は求めていたわけですね。
そして同質化した集団をせっせと作るのは、言わずもがな「学校」です。

学校教育で脱個性・同質化を行い、会社に労働力として提供します。
そして一様な大量の労働力を会社が使うことで、社会全体で物質的な豊かさを手に入れるのです。
要するに、社会全体として同じような歯車を大量に作って使うわけです。
よくできた仕組みですよね。
この仕組みは、産業化社会においては効率的な仕組みだったのです。
みんなでこの仕組みに乗ることで、みんなで豊かになっていけるわけですから、社会の流れに合った仕組みだったと言えます。
しかし現在は、産業化社会が終わり、情報化社会になりました。
同質化した集団ではなく、個々の特異的なスキルこそが価値を持つ時代になったのです。
そのような意味で、よく言われる「多様性」と言うのは、時代に合った考え方なのです。
しかし、学校教育は依然として産業化社会における教育と同じような教育を行っています。
産業化社会の頃と、何も変わってはいないのです。
そして、変わろうとしていないのです。
学校が子どもから奪い続けているもの

このような同質化教育を学校がすることによって、子どもたちから奪い続けているものがあります。
もちろん、「個性」「自分らしさ」、そして「可能性」です。
子どもの頃には無個性になる教育をしておきながら、大人になったら個性を発揮した自分らしい生き方をしろというわけです。
ただの茶番です。
以下の3つの選択肢を見てください。
1.全員を同じ結果にする。
2.全員に同じチャンスを与える。
3.各々の特性に合ったチャンスや教育を与える。
教育として、理想的なものはどれだと感じますか?
恐らく、ほとんどの人が3を選ぶでしょう。
では、現在の学校教育はどれでしょうか?
もちろん、1です。
確かに、3はなかなか難しいものでもあります。
各々の特性などは、興味などもありますから特定することが難しいだけでなく、教師のマンパワー的な問題でも厳しいのが現状でしょう。
ただし、緊縮財政をやめて教育に多くのお金を投じたら、それぞれのクラスに複数の教師を配備することも可能になります。
結局、緊縮財政や財政破綻論がそれをさせないわけです。

ですから現実的な方法としては、3を目指しながら2を最低ラインにすることが、教育現場でやるべきことではないでしょうか。
チャンスを等しく与えながら、それぞれの能力に合わせてやるべきことを調整するのです。
その際に、はずれ値の結果を出す人を排除する必要はありません。
というよりも、排除などしてはいけません。
集団の中での、その人の特性として位置付ければいいだけです。
基本的には、子どもは秀でていたり得意だったり好きなことを、ひたすら伸ばしてあげる方向でいいのです。
苦手なことや嫌いなことばかりに、時間を割く必要はありません。
子どもたちは原石です。
学校がやろうとしているのは、角のない丸い同じ形の石を大量に作ることです。
そのようなことは意味ないどころか、害でしかありません。
角がたくさんあって、いびつな形の石でいいのです。
角を削ることは、絶対にしてはいけないのです。
まとめ

・学校教育には、歪んだ平等が蔓延している。
・人の能力などは同じではないので、学校の目指す平等は不可能で害悪。
・学校教育は、産業化社会における同質化を未だに続けている。
・学校は個性や自分らしさを、子どもから奪い続けている。
・子どもたちは、いびつな形の石のままで良い。
このことは学校だけに言えることではありません。
親の責任でもあります。
というよりは、大人全員の責任でしょう。
子どもは、それぞれ違った可能性を秘めています。
その可能性を一緒に探し続けてあげることが、大人の役割ではないでしょうか。
今行われていることは、子どもの可能性を消す作業です。
一人でも多くの大人が、このことに気づいてほしいものです。
但し少数ではありますが、親や教師などの大人の中にも、子どもたちの可能性を探してくれる人も存在します。
今回書いていることは、そのような人たちは含まれません。
本当にごくごく少数ですが・・・
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。