今回は、「多様化が進んでいくことによって懸念されること」について考察します。
結論としては
・多様化が進み行きつくところは、無関心
・無関心が進むと、分断に繋がる
・日本人は元来多様性を許容してきた
・多様性の根底には、一定の共通意識が必要
です。
今の世の中では、「多様性」が最重要なこととして考えられています。
多様性こそが正義であり、多様性を認めないことは絶対悪のような風潮がありますよね。
そのため、社会はどんどん多様化の道を進んでいます。
確かに人それぞれの個性を否定せず大切にし、様々な価値観を認め合うことは良いことでしょうし、今の世の中には必要なことでもあると思います。
しかし、多様性を求めすぎて多様化が行き過ぎることには、大きなリスクもあると感じます。
また、今の日本において叫ばれている多様性は、本質的には多様性とは言えないものであるとも感じます。
それでは、それがどのようなことなのかについて、説明していきます。
多様性は無関心を生み出す

人は、基本的には自分と近い価値観などを持っている人と親しくなり、コミュニティなどを形成します。
自分とあまりに価値観や文化的背景などが違い過ぎる人は、親しくなりにくいですし受け入れるのも難しいというのが現実です。
「多様性を認める」と言っても、個人レベルでは受け入れ難いことも多々存在するということです。
ですから、「多様性を認める」「多様性を受け入れる」というのは、社会という枠組みにおいての事と捉えた方が適切です。
社会全体
多様性を認め、受け入れる
個人
個人としては受け入れがたい部分もあるものの、社会として受け入れるために許容せざるを得ない
といったところでしょう。
もちろん、このように社会と個人が一致しないことはよくあることではあります。
しかし、現在のように
・多様性を認めて受け入れるのが当たり前
・多様性を受け入れられないのは、人としておかしい
というようなかなり偏った風潮では、大きなリスクになる可能性もあります。
個人としては
受け入れたくないのに、同調圧力的に受け入れなくてはならない
という状況になっているケースが多々あると考えられます。
そのような状況に晒され続けた場合、人は「無関心」になりがちです。
受け入れたくない相手に対して、無関心になるわけです。
一種の自己防衛反応とも言えます。
受け入れたくない人や物や事柄に対して、認知したり関心を持つことは、ストレスになりますからね。
無関心になって距離を置くのが最善の方法になるということです。
無関心は分断に繋がる

多様化が進み無関心が増えることで、人々は棲み分けていくことになります。
多様性と言っても、行動を共にしたり集団を形成する人たちは、ある程度近い価値観などを共有しお互い興味があります。
無関心な相手とは、距離を置いて棲み分けるようになるわけです。
そして棲み分けが進めば、いわゆる「分断」の状態になります。
同じ社会の中で分断が起こると、それは争いに繋がりかねません。
例えば日本という国単位で考えると、日本の政府は一つです。
シンプルに2つに分断していて、それぞれが支持する政党があったとすると、常にどちらかの要望のみが通るような形になります。
要望が通らない方は、当然不満が募りますから、争いの火種が生まれるわけです。
とは言え、実際にはもっと多くの政党がありますし、価値観は人それぞれです。
社会が存続する以上、ある程度の分断は絶対的に発生するものであり、分断を無くそうとすれば独裁政治になってしまいます。
ただし多様化の裏側には分断があり、それが行き過ぎてしまうと社会が機能しなくなってしまうリスクがあることは認識する必要があると思います。
一定の共有概念が必要

では、多様性を認めながらも分断によって社会が壊れないようにするためにはどうすれば良いかと言えば
ある一定レベルの共有概念・共通意識
を持つ必要があります。
要は、程度の問題です。
多様性を認めすぎなければ個人が抑圧される社会になってしまうし、多様性が行き過ぎれば分断によって社会が成り立たなくなる可能性があります。
そのラインをどこにするかということですが、それが今までの世界では「国境」だったのです。
国それぞれの文化や民族性が共有概念であり、その根底があるからこそ多様性があっても形を保てたのではないでしょうか。
しかしグローバル化によって、その国境が曖昧になってきています。
この状況は、多様性が行き過ぎた状況に近づいているようにも思えます。
特に日本においての多様性は、かなり歪んでしまっています。
多様性というのであれば、日本の古くからの文化や民族性も認めるのが当然なのですが、それらは戦後否定されてグローバリズムこそが多様性のようになってしまっています。
ナショナリズムもグローバリズムも認めなければ、多様性とは言えません。
そもそも日本という国は、非常に多様性を持った国とも言えます。
これは宗教的な背景も強く、八百万の神のように様々な神を許容してきた民族性があります。
自分たちの考え方とは違う仏教やキリスト教などの一神教も受け入れてきました。
また、欧米諸国などに比べると身分制度もあいまいで、割と自由な民族性だったとも言えます。
そのような日本の多様性を否定して、欧米のグローバルリズムを受け入れることこそが、多様化というような風潮になってしまっているのではないでしょうか。
本来であれば、日本の文化をベースにして、他国の文化も許容するというのがあるべき多様性ではないかと思います。
日本人が日本を否定し続けるようであれば、日本が日本ではなくなってしまう日も遠くはないかもしれません。
まとめ

・多様化の裏側は分断
・分断は絶対的に起こるが、行き過ぎると社会が壊れかねない
・日本の多様化は、日本固有の文化を否定している歪んだもの
「日本人である」「日本の文化で育つ」などは、根底の共有として必要ではないかと思います。
そのような共有により
・日本が好き
・日本に誇りを持つ
・日本が良い国であって欲しい
という共通認識を持つことが出来ます。
このようないわゆる愛国心を持つと、「右翼だ」というようなことを言う人がいますが、日本以外の国は普通に愛国心を口にします。
愛国心を否定して、自国を否定するのは日本人位のものです。
日本人はGHQが作った教育によって自虐史観を植え付けられていますからね。
そのような日本で問題になっているのが
・外国人留学生問題
・外国人生活保護問題
・外国人の移民受け入れ問題
・外国人参政権問題
などです。
どれも間違った多様性を突き進んでしまえば、日本が日本でなくなる道まっしぐらです。
それを多様性という言葉に踊らされて、喜んで受け入れようとする反日の日本人が多いのです。
そろそろ日本の正しい歴史などを知り、適切な愛国心などを持ったうえで多様性を受け入れなくてはならないことに、気付かなくては手遅れになってしまいます。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。