今回は、「親を敬う」ということについてです。
要点としては
・「親を敬う」ということを道徳的義務にするべきではない
・親が子どもを育てることは義務
・子どもに敬われるような親になろうとすることが最も重要
です。
日本においては、「子どもが親を敬うのは当たり前」「子どもは親を敬うべき」などが、ある種の常識や道徳的義務のようになっています。
もちろん、子どもが親を敬うというのは非常に素晴らしいことですし、そのような親子関係は非常に良いものだと思います。
しかしその反面、親を敬うことを義務的な位置づけにし、親を敬わない子供に問題があるような捉え方はどうかと思います。
子どもは無条件に親を敬わなくてはならないという考え方は、本質からずれているように感じます。
そこで今回は、「親を敬うべき」ということに関して考察してみます。
(但しこのことに関しては明確な正解はありませんし、個人の捉え方によるところが大きい事は間違いありませんので、個人的見解として読んでください。)
尊敬は自然と沸き上がるもの

まず個人的に最も違和感を感じるのは、「敬うべき」というところです。
「~するべき」というのは、「~しなくてはならない」という意味合いを持ちます。
断定や強制が含まれているのです。
しかし尊敬というのは、自分で意志を持って生じさせるものでもなければ、ましてや誰かに言われて強制的に持たされるものでもありません。
尊敬というのは、自然と湧き出てくるものです。
つまり誰かを敬うというのは、自分でも知らず知らずのうちに自然と生じる感情のはずです。
「感動」のような感情に近いものがあると思います。
そのような感情に対して「するべき」というのは、果たしてどうなのでしょうか。
「お前は感動するべきだ」と言っているようなレベルです。
このような感情は、意志でどうこうする類のものではないのです。
「親を敬うべき」のルーツ

では、「親を敬うべき」という概念は、どのようにして生まれたのでしょうか。
何かに対して深く考えるには、それが生まれた理由や起源などを知ると、俯瞰的に見ることが出来やすくなります。
「親を敬うべき」という思想は、もともと儒教の教えによるものだと言われています。
儒教が日本に伝わったのは513年と言われており、538年に伝わったとされている仏教よりも早くから儒教は日本に浸透していきました。
儒教というのは形式や家族などを重要視するのが特徴で、人間関係や様々なもの事には上下関係が存在し、それを大切にすることが必要とされています。
そのため、儒教の考え方が広まったことで日本には、「年上は敬うべき」「親は敬うべき」という考え方が一般的になっていったわけです。
つまり、言ってみれば宗教的な思想であり、普遍的な道徳などではないということです。
ちなみに欧米などキリスト教の地域では、「神の下では人類はみな平等」という教えから、人の繋がりを縦より横でとらえる傾向にあります。
そのような思想の中では、「親は敬うべき」という概念は日本よりも弱いと考えられます。
結局のところ「親を敬うべき」というのは、一つの宗教の教えであり、幾多ある考え方の一つでしかないとも捉えられるわけです。
とは言え、古くから長年日本人が持ち続けてきた文化だということも事実です。
親を敬うべき理由が納得できない

このような歴史的背景はありますが、現在「親を敬うべき」ということの理由としてよく言われるのが
・最も身近にいる年長者だから
・育ててもらった恩があるから
というものがあります。
まず「最も身近にいる年長者だから」というものですが、そもそもこれは「年長者は敬うべき」という儒教の考えそのものです。
しかし儒教は別としても、昔はこの考え方はしっくりくるものだったと考えられます。
なぜなら昔は今と違い、親は自分を育ててくれるというだけの存在ではなく、学問を教えてくれる教師であり仕事を教えてくれる師匠でもあったからです。
昔は学校ではなく主に家庭で学問を学び、仕事も個人が自由に選ぶのではなく親と同じ仕事をすることがほとんどでした。
ですから、昔は子どもにとっての親は親であるだけでなく、教師であり師匠であったわけです。
環境的にも親を敬いやすい環境だったとも考えられますね。
しかし現代は、教育は学校に移行し、仕事は上司に教わるようになりました。
親の年長者としての役割が、現代は激減しているのです。
そのため、昔ほど親を年長者代表として敬うということが、自然な流れではなくなったとも言えるわけです。
時代が変わったとも言えます。
時代が変われば、常識なども変化するのは当然のことです。
次に、「育ててもらった恩があるから」ということに関しては、個人的には完全に否定的です。
「育ててやった恩を忘れるな」などと言うのは、言語道断だと思っています。
個人的に問題だと思っているのは、よく言う「生んでくれと頼んでいない」という子どもの立場からの話ではなく、親の立場からの話です。
そもそも子どもを育てるというのは、親の義務以外の何物でもありません。
というよりは、生物として当たり前の行動でしかありません。
見返りを求めるようなことでは全くないはずです。
人間以外の様々な生き物を見ても、見返りを求める親など存在しません。
種の繁栄という生物学的視点で見ても、それが自然なことなのです。
また「育ててやった恩」というのは、そこに苦痛があるようにも捉えられます。
実際に子育てを苦痛と感じる親も存在するのでしょうが、その場合でも子どもを作った責任として黙って育てる義務があります。
それよりも個人的には、子育てが出来ることは親として非常に大きな喜びであり、楽しみや幸せだと感じます。
子どもに「親」にしてもらった、という感覚です。
子育てをすることから得られる喜びや楽しみや幸せなどは、他の何にも代えられません。
子どもが与えてくれるこれらのものは、一生かけても返しきれないものだと感じています。
そのような意味でも、「育ててやった恩」などは存在すらしないと思うのです。
(但し、このことに関しては個人的価値観によるのかもしれません。)
敬われる親になる

では、親の子とは敬わない方が良いかと言えば、もちろんそんなことはありません。
子どもが親を敬わない関係よりも、敬う関係の方が良いことは言うまでもありません。
問題なのは、敬うという結果になるための主体がどちらにあるかということです。
「親を敬うべき」というのは、主体が子どもにあります。
しかしここまで説明したように、敬うという感情の性質や親子の関係を考えたときに、それは不自然なものだと思うわけです。
本来的には
子どもに敬われる親になるべき
というのが自然なことだと思います。
主体が親にあるということです。
子どもに親を敬うように義務付けるのではなく、子どもが自然と敬うような親になるように努力するのが当たり前のことではないでしょうか。
そして、それを実践できている親がどれだけいるのか疑問です。
まとめ

・「敬う」というのは自然と沸き上がる感情で、強制するものではない
・「親を敬うべき」というのは、儒教の宗教的思想から来ている
・親が子どもを育てるのは義務で、恩を着せるべきではない
・親が子どもに敬われるように努力するべき
子どもに敬われるように努力するべきなのは、親に限った話ではありません。
教師にしても同様ですし、全ての大人が全ての子どもに対して実践するべきことではないでしょうか。
それを行わずに子どもに自分たちを敬えというのは、傲慢以外の何物でもないと思うのです。
大人が子どもたちの規範になるように立派に生きようとし、それを見た子どもたちが大人を尊敬する社会になれば、きっと良い世の中になると思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。