社会

【3.11】誰も言わない被災地支援の真実

【3.11】誰も言わない被災地支援の真実

今日は3月11日です。

2011年3月11日に東日本大震災が起こって、11年が経ちます。

亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 

今回は、被災地支援について書こうと思います。

 

結論としては

・長期的で継続的な支援は、むしろ自立を妨げる害になる

・支援する側は、ただの自己満足でしかないことがほとんど

・忘れないことは、学んで今後に繋がげること

・美化するのではなく、真実を言える世の中になるべき

です。

 

私自身、震災後は月に1回程度のペースで被災地を訪問していました。

まず感じたことは

メディアの報道は、真実ではない

ということでした。

メディアが真実を伝える機関ではないということが、はっきりと理解できた経験でした。

また、人間は追い込まれたときにどのようになるのかも、予想通りではありましたが実際に見ることが出来ました。

 

メディアでは

大変な状況にもかかわらず、被災地では略奪などは全く起こっておらず、みんなが助け合っている

というような日本人を美化するようなことを報道していましたが、被災地に実際行ってみると、食料の囲い込みや略奪は普通に起こっていました。

食料が大量に余っている避難所から、近くの食糧が不足している避難所へ食料が流れないということも多々あると、被災者の方から聞かされました。

そして、食料が強奪されるため、食糧庫には見張りを交代でつけていたそうです。

 

色々なものを見たり感じたりしましたが、被災地支援には現代の日本の問題が集約されているようにも思えます。

 

それでは、被災地支援について説明していきます。

 

継続的・長期的支援は害

被災地への支援だけでなく、発展途上国などへの支援などでも言われることですが

支援は自立を妨げる

ということがあります。

 

震災などが起こった直後の急性期では、迅速な支援が必要なのは間違いありません。

急性期における救助活動・救護活動・飲食物をはじめとする生活必需品の支援などは、命を救うために必要不可欠です。

 

しかし、その後の支援については、長期的になるほど

支援を受ける側は、与えられることが当たり前になる

となっていきます。

要求もどんどんエスカレートしていき、他の避難所よりも自分たちの方が充実した支援をするように求めたりもするようになります。

支援を受けるのが、当たり前の権利のようになってしまうわけです。

 

結局のところ、長期的・継続的な支援は、支援を受ける人たちを自立から遠ざける結果になってしまうことが多々あるのです。

このことは、被災地の人たちが特別なわけではなく、人間誰しも同様のことが言えます。

医療や介護などは、その典型例です。

 

被災地支援にしろ、医療や介護にしろ、最終的な目標は「自立」です。

自立してもらうためには、何でも与えたり、やってあげることは害なのです。

 

つまり急性期を過ぎた後の支援は、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える」という方向に少しずつ移行していかなければならないのです。

それが本当の支援であり、本当の優しさです。

 

しかし多くの日本人は、医療や介護を見ればわかる通り、「何でもしてあげるのが優しさ」というような偽善としか言えないような価値観を持っています。

そのことは、被災地支援でも同様でした。

 

「自分たちは良いことをしている」という歪んだ美意識を振りかざして、気持ちよくなって、支援される側の人たちの自立を妨げているわけです。

そして支援される側の人たちは、「支援されるのが当たり前」という上から目線で対応するのです。

 

要するに

支援を長期的に続けるほど、自立を妨げて人をダメにする

というわけです。

もはや、支援しない方がはるかにマシです。

やるだけ害ですね。

但し、親を亡くして孤児になってしまった子どもたちなどについては、長期的な支援は必要不可欠です。

 

支援の大半は自己満足でしかない

また、そもそも支援のほとんどは、何の役にも立たないただの自己満足でしかありません。

例えば自衛隊や建設業者などが、重機を使って行う支援は必要不可欠です。

しかしながら、個人ができる支援というのは、実質的にはほとんどありません。

細かいところで意味があることもあるかもしれませんが、基本的には個人による支援の効果は皆無に近いと言えます。

 

しかし、被災地に行った人たちは

「力になれてよかった」

「気持ちは被災地においてきた」

などと、意味不明なことを言うことが多かったですね。

ただ単に、自分が気持ちよくなるための自己満足でしかありません。

 

そもそも、人間というのは自分よりも不幸だったり厳しい状況の人と接すると、精神が安定するということがわかっています。

ほとんどのボランティアというものは、根本的にはこれがあるのだと思います。

つまり、自分が安定して気持ちよくなるための行為でしかない可能性が高いわけです。

 

しかし、被災地に行くことが良くないことだということではありません。

被災地に行って、様々なものを見て感じて接することは、非常に重要なことだと思います。

 

しかし勘違いしてはいけないのは、被災地に行くというのは被災者の役に立てるわけではなく、色々なことを学びに行く機会を得ているのだということです。

・自分が同じ状況になったとき、どのようになってしまうのだろうか

・今後自分が震災にあった時を想定して、どのような準備が必要か

・自然災害に対して、社会としてどのように対応するべきか

など、被災地に足を運ぶことで、様々なことを考えるきっかけになり、準備ができます。

被災地では何の役にも立てなくても、そのようなことをしっかり考えることで、今後に繋げることが可能になります。

 

東北地方が被災地になったのは、言ってみれば不運だったのです。

関東地方などで同じようなことが起こることも、十分あり得るのです。

自然災害による犠牲は、人類の歴史において避けることのできないものです。

 

ですから、実際に自然災害が起こってしまったときに必要なのは、「忘れない」「寄り添う」などの同情や自立を妨げるだけの支援ではありません。

今後にどうつなげるのか

ということこそが、何よりも重要なのです。

 

役に立っていないのに自己満足に浸って気持ちよくなっていても、未来につなげることなど到底できません。

 

真実を言える社会に

支援の在り方なども問題ですが、最も問題なのは

真実を言えない社会

ということではないかと思います。

 

・被災者は与えられることが当たり前になってしまっている

・食料の囲い込みや奪い合いが起こっている

・ボランティアの大半は、無意味でむしろ迷惑な存在

・被災地は今後のために、学ぶべき状況

というようなことを言うと叩かれ、言えなくなっているのが日本社会です。

人間は美しさだけではなく、醜さも併せ持っています。

全てひっくるめて人間なわけです。

当たり前ですよね。

 

それなのに、世の中は美しい部分だけを切り取って慰め合うのが常識となっています。

くだらなさの極みです。

 

このことは、今の日本社会における高齢者の扱いと全く同じですよね。

高齢者が安心して暮らせる社会を

とか言う意味不明なきれいごとを言わなくてはならない社会です。

本来であれば

高齢者は最も犠牲になるべき世代

です。

当たり前です。

 

このような当たり前のことを言えない社会が、今の世の中なのです。

そのことこそが、被災地支援や現代社会が迷走する最大の要因ではないでしょうか。

 

まとめ

・支援は長期になるほど、自立を阻害し人をダメにする

・ボランティアの大半は、無意味どころか害

・同情は何も生まない

・悲惨な現実は、その後の教訓にして繋げなくてはならない

・真実を言わず、美化する社会こそが最大の問題点

いい加減、被災地の人々のことを美化するのはやめるべきです。

もちろん、頑張り続けている人もいますし、立派にふるまい続けていた人もいます。

ごくごく少数ではありますが。

 

しかし、大多数の人間の本質はそんなに美しいものではありません。

その現実から目を背けて、一体何の意味があるのでしょうか。

美化するのは、ただの慰め合いでしかありません。

害です。

 

まず考えなくてはならないのは、何を優先するべきで、何を犠牲にするべきかです。

住めないところは住めないし、直せないものは直せないのです。

犠牲がない社会など存在しないのですから、そのことを認識して優先順位をつけていく必要があります。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。