社会

戦争はなくせるのか【ウクライナ問題から考える】

戦争はなくせるのか

今回は、「どうすれば戦争をなくすことができるのか」ということについて考えてみます。

 

結論は

・戦争をなくすことはできない

・戦争を「しない」でなく、「できない」にすれば良いのではないか

・「勢力の均衡」が一つの選択肢として考えられる

です。

 

残念ながら、ロシアとウクライナの戦争が始まってしまい、現在も続いています。

日本にとっても、決して対岸の火事ではありません。

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日本は西側諸国に属していますから、報道も西側寄りの報道ばかりです。

・プーチンは狂人

・独裁者プーチンの暴走

などのようなニュアンスばかりです。

 

しかし戦争というのは、どちらが善でどちらが悪だというものではありません。

お互いの正義がぶつかるからこそ、戦争になってしまうのです。

 

事実、ロシアからすれば、ウクライナ侵攻は

侵略ではなく、自衛

という意識が強いでしょう。

 

ロシアという国は、昔からヨーロッパ諸国などに侵略され続けてきた歴史があります。

古くはチンギス・ハーンや、ナポレオン率いるフランス、第一次・第二次世界大戦のドイツなどによって、ロシアは国土を脅かされ続けてきました。

第二次世界大戦におけるロシアの死者数は、戦闘員・非戦闘員含めて2700万人とも言われています。

太平洋戦争の日本の死者数が310万人ほど(うち80万人が民間人)と言われているのと比べても、凄まじい被害があったことがわかります。

 

もちろん、ロシアが侵攻している場合もありますから、ロシアが戦争の被害者だというわけではありません。

しかし戦争においては、どの国も被害者意識の方が強いですから、少なくともロシアは非常に強い被害者意識とヨーロッパ諸国への恐怖を抱えていると考えられます。

 

そのような背景の中、NATOの東方拡大に対して、非常に敏感になるのも自然なことなのかもしれません。

最低限ウクライナは死守しないと、またやられかねない

という心理になるのも、不思議ではありません。

ロシアにはロシアの正義があるのです。

 

しかし、お互いの正義がぶつかったとしても、その結果が戦争であっていいはずがありません。

正義などですらなく、自分たちの利益のために戦争を引き起こそうとする連中でさえ、自分や自分の家族などが戦争に巻き込まれたくないでしょう。

自分や自分の家族などが、戦争に巻き込まれて喜ぶ人など、いるはずがありません。

 

しかし、人類は戦争を繰り返し続けています。

人類の歴史は戦争の歴史でもあります。

 

人類は、戦争をなくすことはできないのでしょうか。

「戦争はなくせるのか」「どうしたら戦争をなくせる可能性があるのか」について、考えたことを説明します。

 

人はなぜ争うのか

人が争う理由として、まず考えられるのは

人は自己中心的な生き物だから

ということです。

これは、誰もが否定しないことでしょう。

自己中心的なので、他人に様々なことを要求したり押し付けたりし合う結果、争いが起こるわけです。

 

しかし、争いが起こる理由は、それだけではありません。

善意からくる争い

というものも存在するのではないでしょうか。

自分にとっての正義や価値のあるものを、自分以外の人にも伝えたいと思うのが人間です。

その根底には

自分が感じている幸福を他の人にも味わってもらいたい

という想いが存在します。

 

もちろん、このような場合の多くは独善的であり、相手の状況などを考えていない場合も多いでしょう。

自己中心的に押し付けているという面は、否定できません。

しかし、やり方はどうあれ、他人のことを思う善意からの行動だということも事実です。

そして、このような場合でも、伝えたい人と受け入れたくない人の間に争いが起こることはよくあります。

 

つまり

人が他人に好意や興味を持つ限り、争いはなくならない

ということです。

 

人と人の争いの延長が戦争ですから、このような意味では人々の争いや戦争の火種が無くなることはないのではないでしょうか。

 

社会契約説

しかし、人々の争いを一定程度抑えるものがあります。

それが、「社会契約説」という考え方です。

 

社会契約説を簡単に説明すると

人と人の争いを抑えるためには、人より圧倒的に大きな力が制御する

というものです。

 

つまり、人は国家というものに属し、国家が人々が争いを起こさないようにコントロールするわけです。

例えば警察や裁判所などの国家権力を有する組織が存在することで、人々の争いを制御し、人々の権利や安全が守られるということです。

国家が存在することで、国家内の秩序が守られるイメージですね。

(但し、国家がないと無秩序になるかといえば、そうでもないかもしれません。)

 

しかし、その国家を個として見た場合、この社会契約説は成り立ちません。

戦争というのは、基本的に国家レベルで行われます。

社会契約説を成り立たせるためには、国家を超える圧倒的な力を持った存在が必要になります。

しかし、そのようなものは存在しません。

 

国連がその存在になり得るという人もいますが、まず不可能でしょう。

理由としては

・国連には強制力がない

・内政不干渉が原則だから

・常任理事国に拒否権が存在する

といったことが挙げられます。

 

国連には強制力はなく、自分たちの国のことは自分たちで決定するというのが国際社会の原則です。

しかも常任理事国には拒否権が存在し、常任理事国のうち1か国でも拒否権を発動すれば、議案は成立しません。

この拒否権を見てもわかるように、国連は戦勝国による戦勝国の利益のための組織でしかありません。

自分の国の地位を揺るぎないものにするためのものです。

そのような組織が、国家を超えた存在になどなり得るはずもありません。

 

戦争はなくならない

要するに戦争が起こる理由は

・人が自己中心的であること

・人が他人に好意や関心があること

であるうえ、戦争を抑えられる存在は地球上に存在しないということになります。

 

つまり

戦争はなくならない

というのは、残念ながら確定的な事実なのではないでしょうか。

 

しかし、「戦争はなくならない」ということを受け入れて認識することが、戦争をなくすための第一歩ではないかと思うのです。

人が「戦争をしない」ということが出来ないのであれば、「戦争をできない」という状況を作り上げることを解決策にする以外にないのではないでしょうか。

 

勢力の均衡

各国が戦争をしにくい状況として

勢力が均衡している状態

が考えられます。

 

そもそも、戦争は勢力の均衡が崩れたときに起こりやすいとも言われています。

今回のロシアのウクライナ侵攻もそうですよね。

アメリカがNATOを拡大しすぎて均衡を崩してしまったということは、間違いありません。

 

もちろん、勢力を均衡させ続けるのは至難の業です。

しかし、現代は比較的簡単に勢力を均衡させられる武器が存在します。

それが「核」です。

 

地球そのものを消滅させられるレベルの核は、それだけで世界の均衡を作ることが可能になります。

お互いが核を保有したうえで、ある程度の均衡がとれるようにバランスを取っていく必要があるのではないでしょうか。

 

本来的には、核などという危険極まりないものは消滅してしまった方が良いですが、核保有国が全て核を放棄することなど到底あり得ません。

ここでも戦争と同じで、核もなくならないという前提で考える必要があります。

 

つまり

・戦争はなくならない

・核はなくならない

という前提で考えれば、いわゆる「核の抑止力」による均衡状態を作り上げる以外の方法はないと思われます。

 

もちろん、この方法は非常に危険が伴うことも事実ですし、一歩間違えれば人類滅亡に繋がりかねないのでしょう。

しかし、人の善意すら戦争に繋がってしまう以上、それしか方法はないのではないでしょうか。

 

まとめ

・人間の自己中心さだけでなく、他人への善意すら戦争の原因になる

・戦争はなくならないため、戦争できない状況にするしかない

・核を使った均衡状態を作ることで、戦争できない状況を作れるかもしれない

もちろん核を根絶して、誰もが戦争をしないために理性的にお互い譲歩し合って、仲良く世界中が平和であることが理想です。

しかし、残念ながらそれは理想でしかありません。

理想を追い求めることは大切だと思いますが、理想を追うのと並行して現実的な対策も実施する必要があります。

 

核を使った均衡状態は、今までも行われてきました。

しかし、今回のウクライナ侵攻で核保有国と非保有国の格差が顕著になってしまいました。

どこにラインを引くのかは難しいですが、日本も含めて多くの国が核を保有することを考える必要があるのかもしれません。

 

当然ながら、核保有国が増えれば増えるほど、リスクはどんどん高くなります。

広げ過ぎてしまえば、テロなどにも核を使われかねません。

そのようなリスクを支払うのであれば、戦争をなくそうをすること自体をやめた方が良いのかもしれません。

かといって、戦争が続けばいつかは核が使用されてしまうかもしれません。

 

どっちに進んでも地獄ですね。

 

そもそも核を作ったことが、人類の終わりの始まりなのかもしれません。

技術の発展は様々なことを便利にしてきましたが、その代償として人類は超えてはいけない一線を越えてしまったのかもしれません。

 

なんにせよ、まずは一人一人がしっかりと考えることが必要不可欠です。

 

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。