今回は、「臨機応変な対応」についてです。
結論としては
・臨機応変に対応できない人が多すぎる
・コロナ騒ぎで、それが顕著になった
・決まりやルールを守ることは、手段であって目的ではない
です。
真面目にルールや決まりを守ることが得意であり、美徳とすら感じている節があるのが日本人です。
もちろん、ルールや決まり事を守ることは状況によっては非常に重要ですし、ルールや決まりがあるからこそ守られているものも多々あります。
しかし、それが行き過ぎてしまっていることで杓子定規になってしまい、臨機応変に対応できない人ばかりが溢れかえっているという現実もあります。
そもそもルールや決まり事と思っていることの中には、根拠のない常識が同調圧力によって、まるで守らなくてはいけないことのようになっていることも少なくありません。
そのようなものに対して右向け右になって、盲目的に従っている人が非常に多いのです。
そのような人たちは
・そのルールや決まりの目的は何か
・そのルールや決まりに効果はあるのか
というようなことすら考えないのでしょう。
それでは、臨機応変に対応できない人が溢れかえている現状と、臨機応変に対応するためにはどうすれば良いのかを説明していきます。
ルールや決まりは手段であって目的ではない

まず当たり前のことですが
ルールや決まりは、何かの目的を達成するためなどの手段
です。
当たり前のことなのですが、この当たり前のことを理解できていない人が非常に多いというのが現実です。
本来は
・何かしらの目的を達成するため
・何かを起こらないように防ぐため
などのために、ルールや決まりが存在するのです。
例えば、信号なんかはわかりやすいですよね。
赤は停まれです。
これは
命を守るために、交通事故を防ぐため
ですよね。
これは誰もが認識していることでしょう。
では
社員は全員スーツにネクタイをしなくてはならない
というルールはどうでしょう。
営業職の人は相手次第なところもありますが、社内で働いている人がスーツにネクタイでなくてはならない目的は明確ではない気がしますね。
このような場合、本来的には
・このルールは何を目的としているのか
・このルールは必要か
ということを検討するのは、非常に生産的で意味があります。
しかし
うちはこういうルールだから
という人が多いのです。
このような人たちは、ルールは手段であることなど全く頭になく、ルールを守ることが目的化しているのです。
そのように思考停止になってルールを守ることを目的としてしまえば、何も考える必要がありませんから、ある意味では楽なのです。
そういう思考停止人間の集まりが、くだらない同調圧力を作り上げるわけです。
ルールや決まりは、目的ではなく手段
このことを絶対に見失ってはいけません。
親子の席を離す店員

新型コロナ騒ぎによって、「密」を避けなくてはいけないと言われ続けていますね。
その上で「緊急事態宣言」や「まん延防止等重点措置」などによって
・施設の人数制限(席と席の間をあけるなど)
・飲食店では1組4名まで
などのルールができました。
これらの規制の目的は
人同士の接触(飛沫も含め)を減らすことで、感染リスクを低減する
というものですよね。
その目的を達成するための、手段としてのルールです。
(実際には、このようなルールは感染防止にほとんど効果はありませんが、ここではそのことは一旦置いておきましょう。)
目的を達成するためのルールですから、感染防止という目的を達成できない場合においては、このルールは全く意味がありません。
ルールを守ることが目的ではなく、感染防止が目的ですからね。
しかし、実際に行われていることとして
・映画館で幼稚園児が親と離れた席に座らされる
・5人家族で外食をして、一緒のテーブルで食べさせてもらえない
などがあります。
アタマワルスギマスヨネ。
家や移動している間や至る所で一緒に生活している家族です。
飲食店や娯楽施設でだけ距離を置いて、集まらないようにしたところで何の意味もないのは、誰にでもわかりそうなものです。
それなのに、日本の飲食店や施設などの多くは、家族であろうと例外を認めません。
子どもが小学生だろうが幼稚園児だろうがです。
思考停止の極みです。
なぜ大人の茶番劇のしわ寄せを子どもが受けたりしなくてはならないんですかね。
仮に4名までというルールがあったとしても、家族の場合には臨機応変に対応するなどすればいいのです。
後で叩かれないように、保身のためにルールを徹底しているわけですが、そのような臨機応変の対応をしたら叩かれる日本ってどうかしていますよね。
まあ、そもそもこのようなルールは感染防止に何の意味もないわけですから、フル無視でいいんですけどね。
思考停止が蔓延している

このように、思考停止が蔓延しているわけです。
どうせなら、思考停止まん延防止等重点措置なんかをやってほしいものです。
このようなことを言うと
どこかラインを引かなきゃいけないから、仕方ないだろ
というような人がいます。
確かにどこかでラインを引かなくてはなりませんよね。
ラインを引くためにルールが必要というわけです。
確かにそれには一理ありますが、ルールにはある程度の「のりしろ」を持たせる必要があります。
例外とも言えますかね。
「1グループ4人」というラインである必要などありません。
本来的なラインは
目的を達成できるかどうか
であるべきに決まっています。
目的を達成するためのルールですからね。
当然そうなると、人によって判断の差が多少なりとも生じます。
臨機応変に判断すれば、全員が同じ結論にはなりません。
でもそれでいいのではないでしょうか。
ある1つの絶対的なラインを引くことで、多くの人は手段が目的化してしまっています。
どんどん思考停止になってアホになっているのです。
そうなると、なぜ「4人」という人数なのかすら考えません。
(4人という数字には、なんのエビデンスもありません。)
なぜ3人やら5人やらじゃないんですかね。
多くの人が、そんなことすら考えなくなっているのです。
要するに、ルールをひたすら守ることばかりが正義になることで、日本中がアホになっていっているということです。
まとめ

・ルールは手段であって目的ではない
・ルールには「のりしろ」があって然るべき
・ラインを引くとしたら、「目的を達成できるかどうか」がラインになる
臨機応変に対応するということは、自分の頭で考えるということです。
ひたすら機械的にルールに従って守るということは、何も考えず思考停止になるということです。
自分の頭で考えて臨機応変に対応できるようになるためには
・目的は何か
・そのルールは目的を達成できるか
・目的を達成するためのラインはどこか
などを常に考えていればいいのです。
現在のコロナ騒ぎにおいては、このようなことを考えていくと、そもそも「感染対策」と言われるほとんどのことが無意味に思えてきますけどね。
コロナ騒ぎに疑問を持つことすらしない人たちは、自分で考えて臨機応変に対応することなんてできないのでしょうね。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。